2012年9月9日日曜日

清涼寺











清涼寺、仁王門。



嵯峨釈迦堂ともいわれます。






























もともとここは光源氏のモデルとされている源融の別荘・棲霞観 ( せいかかん ) のあった場所。





源融が生前に造立を願っていた阿弥陀三尊像を子息が造り、寛平8年 ( 896年 ) ここにおさめられたことが起源とされます。
当時は棲霞寺と呼ばれたそうです。
































永延元年 ( 987年 )、当時の中国・宋から帰国した奈良・東大寺の僧・奝然 ( ちょうねん ) は、愛宕山を宋の五台山に見立て、その山麓に宋から持ち帰った釈迦像を安置する寺を興そうと考えます。
しかし道半ばにして没し、弟子の盛算 ( じょうざん ) が遺志を引き継ぎ、棲霞寺の一郭に釈迦堂を建立し、清涼寺と号します。




京都に都が遷って以降、仏教の主流は奈良から京都へ移っており、奝然は京都仏教の聖地である東の比叡山延暦寺に対抗し、西の愛宕山麓を南都仏教の拠点にしようと考えていたようです。































その後、奝然が持ち帰った釈迦像はひとびとの信仰を集め、清涼寺は嵯峨の釈迦堂として栄えていきます。








































対照的に棲霞寺は衰退し、



いまではこの阿弥陀堂に名残をとどめるのみです。




































































多宝塔。




借景に小倉山。



































鐘楼。





















































































豊臣秀頼の首塚。




昭和55年、大阪城の発掘調査で発見された秀頼の首が埋葬されているそうです。
これは秀頼が本堂を寄進・造営した縁によるもの。





































薬師寺と「生の六道」の石碑。
仏野に近いこのあたりは生と死の境界と考えられており、いまでも清涼寺の横には六道町と呼ばれる地名が残っています。





冥土とこの世を行き来したといわれる小野篁 ( おののたかむら ) は、六波羅・六道珍皇寺にある「死の六道」から冥土へ行き、この「生の六道」からこの世に戻っていた、と伝わります。





































愛宕街道に続く西門。


















































































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