2012年9月12日水曜日

竹中稲荷と吉田神社















吉田山への坂道。



吉田山は花折断層によって東山から切り離された孤立丘で、標高は102メートル。
古来から神楽山 ( 神々が集う山 ) と呼ばれ、このあたりの地名も吉田神楽山町といいます。

東山三十六峰のひとつに数えられます。






























その山頂近くにあるのが竹中稲荷神社。




桜の名所としても知られ、春にはたくさんのひとが花見に訪れます。






























由緒は定かではないですが、「在原業平の居を神楽岡竹中稲荷神社の傍に卜す云々」と記録に残っていることから、天長年間 ( 824年 - 834年 ) にはすでに社殿があったようです。




吉田神社の末社としていまではひっそりした場所ですが、江戸期の記録には「京師幾萬の子女郡参し昼夜の別なく満山に踊躍す是を蝶々踊と云い其の後数千の鳥居参道に樹立し雨雪為に傘を要せず」と綴られ、かなり華やかな場所であったようです。




























参道からは大文字が間近に見えます。




遊歩道が整備された吉田山を下っていきます。




























吉田神社参道。







































吉田神社。
貞観元年 ( 859年 ) 、藤原山陰が奈良・春日大社から4柱を勧請したことにはじまります。




以後、京都での藤原氏の氏神として崇敬されます。































永延元年 ( 987年 ) には朝廷の公祭を預かるようになり、社運は隆盛。






































鎌倉期に入ると卜部氏が代々神職を務めます。
この卜部氏はのちの吉田と姓を変え、徒然草を書いた吉田兼好もこの家の人です。







































本宮から少し離れた場所にある斎場所大元宮。




吉田神社といえば吉田神道。
すべての始まりである虚無大元尊神を中心に祀り、そこから生まれるとされる八百万すべての神々を祀ることであらゆる神徳を授けてもらえる、というもの。























この独自のドグマによって神宮 ( 伊勢神宮 ) をはじめとする既存の神道と激しく対立しつつ、皇室・公卿や大名の後ろ盾を得ることにより、吉田神道は勢力を拡大。




徳川幕府からは全国の神社の神職を任免する権利まで授けられ、明治期に至るまでは神道界で絶大な権力を誇っていました。




























八百万の神を祀る大元宮。




八角形の本殿に六角形の後房をつけた独特な形。
この本殿は正月の3日間と毎月1日に参拝することができるそうです。


とても興味深い神社です…
























































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