2012年7月7日土曜日

上御霊神社と下御霊神社 ( 上 )





賀茂川・出雲路橋から北山方面を見る。



平安京以前の京都を調べていくとなかなか興味深いのですが、この賀茂川 ( この下流で高野川と合流して 【 鴨川 】 と呼ばれる ) にかかる出雲路橋の周辺もおもしろい歴史の舞台です。



弥生時代の終わり頃、出雲の国からこの地に移り住んだ人々は、出雲国造 ( いずものくにのみやつこ ) である天穂日命 ( あめのほひのみこと ) を信仰しつつこの場所に土着し、奈良時代後半にはこの賀茂川西岸と東岸は山背国愛宕郡出雲郷とされ、出雲路と呼ばれるようになります。
橋の名前は、その名残なのですね。

ちなみにかぶき踊りの創始者とされる出雲阿国もこのあたりの生まれ…という説もあるようですが…、真偽は定かではありません。



出雲路橋を西へ渡り、上御霊神社へ。







正式には御霊神社といいます。

説明が長くなるのですが、とても興味深いので…

この上御霊神社、平安遷都を断行した桓武天皇に濡れ衣を着せられ、失意のうちに死んだ早良親王の怨念を鎮めるために、この地にあった上出雲神社に祀ったのが始まりといわれています。

上御霊神社の前身は上出雲神社だったのですね…









この当時、政争で敗れて非業の死を遂げた人々は怨霊となり厄災をもたらす、と考えられており、貞観5年 ( 863年 ) この早良親王はじめ5人の怨霊を鎮めるために神泉苑で催されたのが御霊会 ( ごりょうえ ) 。
そしてこの御霊会が、今日まで続く祇園祭のはじまりなのですね。












さらに時は過ぎ、応仁元年 ( 1467年 ) この上御霊神社境内で、管領・畠山政長を義弟である畠山義就が襲撃、これにより三つ巴・四つ巴の戦乱となる応仁の乱が勃発し、京の町はいやおうなく戦国期へと巻き込まれていきます。

そのため、上御霊神社は「応仁の乱勃発地」とされており、碑も立っています。








境内の稲荷社。
稲荷鳥居。









境内の神明神社。
神明鳥居。
鳥居の違いもおもしろいですね。








戦乱のせの字も感じられない、穏やかさ。

怨霊が眠るこの場所も、毎月18日には「さえずり市」という手作り市が行われ、なかなかにぎやかです。












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