2012年9月25日火曜日

琵琶湖疏水 蹴上周辺









地下鉄東西線、蹴上の駅を出るとすぐに現れる「ねじりまんぽ」。
「まんぽ」とはトンネルのことで、トンネル内部のレンガがねじれていることから「ねじりまんぽ」、と言われるそうです。




トンネル内部のレンガがねじれているの、わかります?
こうすることで強度が得られるんだそうです。

額には「雄観奇想」と書かれており、これは建設当時の京都府知事の書だそうです。
すばらしい眺め、奇抜な発想… といった意味でしょうか。





























ねじりまんぽの上には、



インクライン。

落差のある水路に船を通行させるための傾斜鉄道です。
ここ蹴上のインクラインは約580メートルもの長さがあるそうです。
























インクラインのレール。





































疎水が見えてきました。

蹴上船溜り。




琵琶湖の水を京都に運ぶための水路で、明治23年 ( 1890年 ) に建設されました。

当時の京都は幕末・禁門の変による街中の荒廃と東京奠都にともなう人口流出、産業衰退により都市存亡の危機といわれる状況にあったのですが、当時の知事は灌漑、水運、発電、飲料水を確保する目的のもと疎水を建設。
これにより、水力発電で得た電気で日本ではじめての電車を走らせ、産業のための工業用水が確保されることになり、京都は一気に近代化の時代を迎えることになります。



























蹴上発電所。




いまでも発電を続けているそうです。



























船溜りにかかる大神宮橋。



上からは、



































疏水第三トンネルの出口と九条山ポンプ場が見えます。






































ポンプ場の建屋。




そのまま貴族の邸宅と言われても通じそうな外観。

































橋を渡ると鳥居が見えます。




ここから日向 ( ひむかい ) 大神宮の境内です。






























京の伊勢とも呼ばれる日向大神宮。




社伝によると、第23代顕宗天皇の勅により日向高千穂の神蹟から神霊を遷して創建された、とされます。
顕宗天皇って古墳時代の人ですよ…





























京の伊勢、と呼ばれる理由は、




外宮と、

































内宮があるからです。




普段は訪れるひとも少ない、静かな神社です。

































蹴上船溜りに戻り、北へ向かいます。




疏水沿いの道。


























水路はこんなかんじ。




苔がいいですね!






























西側はガケになっていて、




小川治兵衛作庭の何有荘庭園が見えます。
オラクル社のアメリカ人CEOの別荘で非公開なのですが、ここから見えます。




























南禅寺の塔頭、南禅院の鐘楼。


































南禅寺境内を横切る水路閣。

































建設当時は南禅寺の景観を台無しにする、と反対意見も多かったようですが、いまではすっかり南禅寺といえば水路閣。







































南禅寺については、またいずれ。




































2012年9月23日日曜日

藤森 ( ふじのもり ) 神社











競馬ファンにはおなじみ、お馬さんの神さまとして知られる藤森神社。









































正徳元年 ( 1711年 ) 建造と伝わる石造鳥居。




当初は後水尾天皇宸筆の額があり、そのため江戸期の大名行列はこの鳥居の前で槍を下げ、大名は駕籠を降りて礼拝しなければならず、幕末になって新撰組の近藤勇が動乱の世にそのような悠長なことでは時代に即しない、と額をはずしたのだそうです。

意外と合理主義の人なのですねぇ…





























参道馬場。




毎年5月5日の藤森祭には、ここで駈馬 ( かけうま ) 神事が行われます。
馬上でさまざまな技を見せながら参道を全速力で駆け抜ける馬の姿はとても迫力があり、毎年多くの人で賑わいます。

























この神事にちなみ、ここには馬主・騎手などの競馬関係者や競馬好きの人たちの参拝がたくさんあるようです。






































本殿。



社伝によると神功皇后摂政3年 ( 203年 ) 、新羅から凱旋した神功皇后が山城の国、深草の里・藤森にいくさ旗を立て、武具を納め、塚を造り、祭祀を行ったのがはじまりといわれます。






























御旗塚。




































神鎧像。




藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭、ともいわれ、男の子のいる家庭に飾られる武者人形には藤森の神が宿る、とされているそうです。
































菖蒲 → 尚武 → 勝負 …ということで、ここは勝負事の神さまとしても知られます。
































お馬さんの神さまと勝負事の神さまを一緒に参れるとなれば、競馬に情熱を燃やす人は参らずにはいられないですね…





































そして藤森神社のもうひとつの見所が紫陽花。




写真では全然咲いてませんけども。

毎年6月には紫陽花祭が行われ、約1,500坪の敷地に3,500株の紫陽花が咲くさまは圧巻です。


































2012年9月21日金曜日

二尊院














総門。




伏見城・薬医門の移築と伝わります。





























紅葉の馬場。




その名の通り、紅葉の名所です。































勅使門。




平安初期、桓武天皇の子である嵯峨天皇の勅により、慈覚大師が創建した天台宗のお寺で、二尊院という名は二体の本尊、「発遣 ( 現世から来世に送る ) の釈迦」 と「来迎 ( 極楽浄土へ迎える ) の釈迦」 にちなみます。




























二尊が安置される本堂。




平安中期には荒廃しますが、鎌倉時代になって法然の弟子である湛空らによって再興されます。





























見えているのは小倉山。




室町期に入ると、ここ嵯峨野の地にも応仁の乱の業火はおよび、ニ尊院の堂塔伽藍も焼失しますが、



































永正18年 ( 1521年 ) 、公卿の三条西実隆によって再建。






































































参道の階段をのぼって行くと、




法然廟があります。





























法然廟から左手に山道をしばらく歩くと、時雨亭跡。




藤原定家が百人一首を選定した場所です。

ただこの時雨亭跡の場所についてはいろんな説があるようで、まだ断定には至っていないようです。













時雨亭跡からは嵯峨野の風景が見渡せます。




中央やや右に見えるのは清涼寺の本堂。




























またニ尊院は皇室とのつながりが強いことから、二条、三条、三条西、四条、鷹司、嵯峨など、公家の墓が並びます。




変わったかたちの四条家の墓。






































































2012年9月18日火曜日

神泉苑








神泉苑。




平安建都の際、当時の内裏の南に造営された池を中心とする禁苑 ( 皇室の庭園 ) で、管弦など雅宴が行われる皇室や廷臣の遊興の場だったそうです。


































有名なのは祈雨。




雨不足により、清和天皇は東寺の空海と西寺の守敏に祈雨祈祷を命じます。
このとき空海の祈祷により雨が降り、その後西寺は東寺の支配下に入ったとされています。


































池には竜神が住むとされ、善女竜王と呼ばれます。




善女竜王社。


































貞観5年 ( 863年 ) 、ここで行われた御霊会はいまも祇園祭として残ります。







































この場所で源義経と静御前が出会った、という伝説も。




法成就池。

京都一の大通り、御池通りの名はこの池からきているとかきていないとか。
































雅な遊興の場であった神泉苑も中世以降には荒廃し、江戸初期、家康が二条城を造営した際に敷地の大部分が二条城に接収されてしまい、いまではこじんまりした庭園となっています。






































竜頭鷁首の舟。

このような舟で貴族たちが遊んだ、と記録に残っているそうです。



































2012年9月14日金曜日

安井金比羅宮
















猥雑な祇園の街中にひっそり。





























社伝によると、藤原鎌足が氏の繁栄を願って仏堂を建て、藤の木を植えて藤寺と号したのがその起こり。




平安も末の世となり、時の崇徳天皇はこの寺の藤と、住まわせた阿波内侍を寵愛し、たびたび行幸に訪れます。

やがて上皇となった崇徳は保元の乱で罪を被せられ、讃岐の国へ配流。
都に還ることなく没した上皇の菩提を弔うため、阿波内侍は出家して尼となり、この寺で仏界に生きる道を選びます。






























その後、この社を訪れた大円法師の前に崇徳上皇の霊が現れます。




折から都を襲った幾多の災厄が上皇の怨霊と噂されていたこともあり、後白河法皇は上皇の霊を慰めるため、この地に光明院観勝寺を建立します。
































しかし応仁の乱の戦火により光明院観勝寺は焼失。




再興されたのは江戸・元禄年間。
その際、上皇が没した讃岐の地から金比羅権現が勧請され、それ以降いつしかここは安井の金比羅さんと呼ばれ、今に至ります。



































またここは悪縁切りの神社としても知られます。




婚姻・恋愛だけでなく、酒・タバコ・ギャンブルなど、あらゆる悪縁を断ち切ってくれるそうです。







































お札に願いごとを書いて「縁切り縁結び碑 ( いし ) 」を表から裏へくぐって悪縁を切り、裏から表へくぐることで良縁を結ぶ、とされます。














































































切りたい縁がある方は、一度訪れてみては?




ちなみに崇徳上皇の御廟もすぐ近くにあります。