2012年10月28日日曜日

宝塔寺





















仁王門。


































宝塔寺は藤原基経が発願し、子の時平によって899年 ( 昌泰2年 ) に建立された極楽寺がその前身。
源氏物語の舞台にもなった場所です。
































もともとは真言律宗のお寺ですが、




鎌倉時代に日蓮宗に改宗。
山号は深草山。


































多宝塔。




室町時代の創建で、京都市内で最古の多宝塔だそうです。








































































日像上人廟。




日像上人は日蓮の弟子。
師の遺命を受け、京都で日蓮宗の布教にあたりますが、叡山をはじめとする京都仏教の迫害を受け、なんども合訴され、京都から追放されます。
しかし赦免されるとすぐに京都に戻り、死ぬまで布教を続けたといいます。




























































庫裏。



































参道を上った場所には七面天女を祀る七面堂。




七面天女とは法華経を守護するとされる女神のこと。






















































































































極楽寺の名前は、町名として残っています。



























2012年10月20日土曜日

六波羅











六道珍皇寺。




六道の辻の石碑があります。

六道とは仏教で説かれる六つの世界のことで、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道を指します。

このあたりから東山の山麓のかけてはかつて鳥辺野といわれた葬送地で、その境界に位置する現世と冥土をつなぐ辻、という意味で六道の辻と呼ばれるようになったそうです。































六道珍皇寺の創建には諸説あるようですが、承和年間 ( 834~848年 ) 、山代淡海が創建したと記録が残るようです。




鎌倉時代までは東寺に属する真言宗の寺だったようですが、室町期以降は建仁寺に属し、臨済宗の寺として今に至ります。




























本堂。




木造薬師如来坐像を祀ります。































ここはお盆の六道参りで知られます。




六道参りとは、十万億土の冥界にも響き渡るとされるこの鐘楼の鐘をつき、先祖の霊「お精霊さん ( おしょらいさん ) 」を迎える盂蘭盆の行事。
































またこの寺には小野篁 ( おののたかむら ) が冥土とこの世を行き来したとされる井戸があります。




小野篁は夜な夜な生の六道 ( 清涼寺境内 ) から地獄へ入り、閻魔大王の裁判の補佐を行い、死の六道と呼ばれるこの井戸からこの世に戻ったとされる、とても興味深い人物…























鳥辺野に近いことから、近くにはこのようなお店も。




夜毎飴を買いにくる女のあとをつけると墓場で泣いてる赤ん坊が…
という謂れのある幽霊子育飴。
妊婦さんや小さなお子さんがいる家庭へのおみやげに喜ばれます。































六波羅蜜寺。




六波羅とは仏教の教義である六波羅蜜に由来するといわれていますが、古来の地名である六原からきたともいわれます。
よく六波羅密、と表記されますが、六波羅蜜が正しい表記だそうです。





























平安中期、空也上人が開祖した西光寺がその起源。




空也上人は踊り念仏で知られる僧。
疫病が蔓延する当時の京の町を、車に乗せた十一面観音を引きながら念仏を唱え歩き、病人に茶をふるまって多くの人を救ったとされます。





























平安末期には平家一門の六波羅殿が営まれたのもこのあたり。




鎌倉に入ると六波羅探題も置かれます。




























弁財天堂。




明治の廃仏毀釈により寺域は削られ、いまではかなり狭い敷地になっています。
































東寺
















一般的には東寺と呼ばれますが、教王護国寺とも呼ばれます。

平安京造営の際、羅城門の左右に東寺と西寺が建立され、それぞれ左京・東国、右京・西国を鎮護する官立寺院がその起源。

9世紀前半、嵯峨天皇は東寺を空海に給預し、これ以降真言密教の根本道場となり、今に至ります。


























金堂。




東寺の諸堂のなかでいちばん最初に建立されたとされます。

現在のお堂は豊臣秀頼の寄進によるもの。





























講堂。

金堂のすぐ北に位置します。




当初のお堂は土一揆で焼失。
現存するのは室町時代に再興されたものです。


























五重塔。




高さ54.8メートルで木造塔としては日本で一番高いそうです。
東寺のシンボル…というより京都のシンボルですね。

空海が建設に着手しますが、完成は空海の没後。
その後その高さゆえ雷などで4回焼失しており、現存するのは徳川家光の寄進による江戸時代初期のもの。























































宝蔵。




東寺の巨大建造群の中で見逃してしまいそうな小さな建物ですが、平安後期に建てられたものが現存する、寺内で一番古い建物。























































御影堂。




かつて空海が居住していた住宅風の仏堂で、西院とも呼ばれます。

このお堂では毎朝6時に空海に食事を供する生身供 ( しょうじんぐ ) が行われ、朝早くから参拝の方々が集まります。


































































空海の命日である21日は弘法さんの日として、弘法市 ( 東寺縁日 ) が行われ、多くの人でにぎわいます。





























2012年10月17日水曜日

常寂光寺













山門。




























仁王門。




朱塗りの門に茅葺屋根の取り合わせ、とても珍しいです。



































仁王門を横から。





































清涼寺と同じく、百人一首を編んだ藤原定家の別荘・時雨亭があった場所、とされます。
































開山は安土桃山時代。




慶長元年 ( 1596年 ) 、日蓮宗の日禎が隠棲の地として開山した、と伝わります。



































本堂。




桃山城の客殿を移築したもので、これには武将・小早川秀秋が助力したそうです。
































境内から見る嵯峨野の眺め。


































多宝塔。
































鐘楼。























































































































秋には全山が紅葉につつまれます。



























2012年10月13日土曜日

知恩院
















三門と華頂山。




























浄土宗の総本山、正式には華頂山知恩教院大谷寺、というそうです。




叡山で修行した法然が、いかなるものも阿弥陀如来の名を唱えれば極楽浄土へ行けるとする浄土宗開祖を決意し、ここに草庵を結んだのが起源とされます。
























御影堂と阿弥陀堂をむすぶ鶯張りの廊下。




本堂の御影堂は改修工事中…
































廊下越しに阿弥陀堂。




43歳から80歳で没するまでの間、法然はここを中心に浄土宗の布教につとめます。

































法然が説く新しい考えは旧仏教勢から激しく攻撃され、法然の没後、嘉禄3年 ( 1227年 ) には叡山の宗徒からの攻撃により破壊されます。




文暦元年 ( 1234年 ) 、法然の弟子である源智が再興。
ときの四条天皇から華頂山知恩教院大谷寺、の山号を下賜されます。


























大鐘楼。




方広寺、東大寺とならぶ大きさの鐘。

































































至勢堂。




もともと法然の草庵はこのあたりにあったそうです。




























法然廟。




その後も火災や応仁の乱の戦火によりたびたび焼失しますが、浄土宗徒であった家康が実権を握ると寺勢は拡大。
寺地は大きくなり、三門や御影堂などが建立されます。

































2代将軍秀忠の娘にして豊臣秀頼の妻、千姫の墓。



































敷地いちばん奥には濡髪大明神。




御影堂ができたため住む場所を失ったキツネが、ときの上人にお願いし、棲家として建ててもらったのがその起こり。
濡髪とはこどもに化けていたキツネの髪が濡れていたためだそうです。